歴史が好きです。
きょうは江戸から明治にかけての財界人・広瀬宰平ついてメモしてみたいと思います。
広瀬宰平は、生涯のうちで名前を変えています。
ここでは「広瀬宰平」で統一して表記することにしますね。
どんな人物?
広瀬宰平は、明治時代の財界の大物です。
住友家の総理人(初代総理事)となって活躍しました。
生い立ち
まだ江戸時代だった1828年、北脇家の次男として近江国(いまの滋賀県)で生まれた。
住友家の銅山ではたらく
おじさんが別子銅山で働いていました。別子銅山とは、愛媛県にある鉱山です。住友家が経営していました。この鉱山のおかげで、住友財閥が発展したといわれています。
広瀬宰平はおじさんの養子になり、別子銅山で働くようになりました。
支配人に昇進
広瀬宰平は、広瀬義右衛門という人物の養子になり、38歳の若さで別子銅山の支配人となります。
新政府に逆らう
明治維新のあと、新政府が別子銅山を没収しようとします。
広瀬宰平は反論しました。
その趣旨は…
「別子銅山は住友家が発見し、ここまで大きくしてきた。経験のない新政府のものが運営してはうまくいかず、それは国益に反する」
というものでした。
このとき担当だった役人も、話がわかる人だったようです。おかげで別子銅山は、ひきつづき住友家(広瀬宰平)が経営して良いことになりました。
このときの役人が、川田小一郎という人物で、のちに三菱の創設にたずさわったり、日本銀行の総裁となった方です。
常識にとらわれない
やがて広瀬宰平は、新政府に才能を認められ、鉱山に関係する役人に抜擢されました。
彼は当時の常識にとらわれず、フランス人技師をまねいて鉱山の近代化もすすめました。
また、新年の席で「相変わりておめでたい」とあいさつしたことがあります。古い慣習にとらわれる人々からは「日本人のあいさつは、相変わらずがお決まりの言葉だ。相変わりてなど、縁起が悪い」と非難されました。
でも広瀬宰平は、明治の新しい時代、変わっていくことが大事だと考えていたんですね。
引退と永眠
明治27(1894)年11月、広瀬宰平は67歳で引退し、大正3(1914)年1月に永眠しました。
⇒広瀬宰平に関する本を見る