あーりーです。
読書が好きです。
とくに…
清潔なサラサラシーツのふとんや、あたたかぬくもりいっぱいのふとんで、ぬくぬくと読書するのが好きです。
ふと
読書の本当のしあわせって何かな、って思います。
スポンサーリンク読書にしあわせを感じない
思えば…
最近自分は、読書にしあわせを感じることが少なくなったような気がします。
「何かのための読書」が多くなったんです。
何かのための読書
仕事のための読書。
勉強のための読書。
成長のための読書。
ブログのネタのための読書。
調べもののための読書。
そういう読書が多くなって、純粋に読書を読書として楽しむことが、大人になるにつれて少なくなったんじゃないかって思うんです。(大人になってもうずいぶん経ちますが)
スポンサーリンク読書のための読書
「何かのための読書」も良いには良いんですけど、やっぱり何のフレームもないところで自由に活字を味わう「読書のための読書」こそが本当の読書のしあわせだと思うんです。
読書のために読書する。
ものすごくぜいたくな時間です。
至福です。
むかしは、そういう読書をたくさんしていた気がします。
ぜいたくな時間の使い方
たとえば『戦争と平和』『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』なんていう長編小説を読んでも、ブログのネタにするわけでもなく、ふせんを貼って何か吸収するわけでもなく…
本当にただ読みたいから読む。
それだけ。
なんてぜいたくな時間の使い方。なんてしあわせな読書のしかた。って、いまは思います。
何かのための読書、おおいに結構
今は読書をしていても「これはブログのネタになるかも」とか「ふせんを貼ってあとで役立てよう」とか、そんなことが頭をチラチラよぎります。
それはそれでいいことなんです。
何かのための読書。おおいに結構なんです。それも必要なんです。
ただ…
何のためでもなく、ただ読書のためだけに読書をしていたあの自由な気持ちとは、少し違う。
アウトプットのための読書になっている
以前は、アウトプットを目的として読書することはありませんでした。
だから自由な気持ちで、純粋に読書に没頭できました。
いまは、どうしてもアウトプットがチラつきます。
心は自由なつもりでも、アウトプットありきなんです。
この本を読めば、こういうアウトプットができる(ブログに書ける、仕事で活かせる、生活が便利になる、できなかったことができるようになる、話題づくりになる)っていう思いがどうしても強くなってしまう。
そういうアウトプットのための読書にしばられてしまっている。
本当に読みたいものは何か
アウトプットにしばられず、本当に読みたいものは何?
って自問自答したとき、とっさにが答えが出ません。
頭が「何かのための読書」に慣れ過ぎてしまったんです。
それはぼくにとって必要なことだったのかも知れません。
でも、ちょっと悲しい。
本当に読みたいものを読んで、読書のための読書を味わう。
その至福をまた感じられるように、気持ちをほぐしていけたらいいな、って思います。