最近ニュータイプについて考えています。
「機動戦士ガンダム」に出てくる、あれです。
考えるといっても、べつに真剣にどうこうというんじゃありません。
ただぼんやりと思うんです。
ニュータイプって何なんだろうって。
ニュータイプって何だろう
思うにまかせて書いたのが、こういう記事たちです。
↓
ニュータイプは人類の希望か復讐の道具か
ニュータイプとは何か 人は自分の見たいものを見る
ジオン・ダイクンが語ったニュータイプ像
ニュータイプは超能力者ではない
レビル将軍が語るニュータイプ 認識力が強化拡大された者
ニュータイプという言葉の意味はブレているのか?
シャア、人の話聞かない説
「機動戦士ガンダム」の小説を読んでいると、ニュータイプについての記述があちこちに出てきます。ガンダムの小説ですから、あたりまえですよね。
その記述を拾って、ふむふむニュータイプってこういうことなんだ、と感心するのが最近楽しいです。
偏見のない叡智
アムロはララァと出会ってニュータイプの存在を確信します。
引用しますね。
「アムロは洞察した。ニュータイプはあり得るのだ。」
「思惟の伝達の判り合い、数百数千、数百万の認識が重なり合いながら人類が偏見のない叡智を掴む」
アムロはララァとわかりあうことで、ニュータイプって本当にいるんだ!と感じます。本当にいるも何も、アムロ自身がそうなんですけどね。
偏見のない叡智。
そう言われてぼくが想像するのは、なんとなく博愛主義的な、みんなありのまま受け入れる的な雰囲気です。
どんな人も偏見なく受け入れることができる叡智。
博愛ではない!?
でも、ガンダムに出てくるニュータイプってときどきすごく人を嫌悪しますよね。
敵味方の壁を超えてわかりあうことがあるかと思えば、相手の存在そのものを嫌悪することもある。
だから、博愛ではないんです。
相手を誤解なく理解して、その結果、相手が嫌悪に値する存在なら、嫌悪する。
そういうことなのかなって、今のところは思います。
ニュータイプについては、気が向いたらもっと手がかりになる言葉を小説の中から拾って、研究(という名の自己満足)をしてみたいと思います。