あーりーです。
吉川英治さんの『新書太閤記』は、豊臣秀吉が主人公の歴史小説です。
第7巻は有名な本能寺の変が起こることもあって、とても劇的にバタバタする巻です。そんな中でとくに印象的だった言葉をピックアップしてみます。
信長は艱難を征服する
絶頂期の信長を表現した言葉です。
試されては剋ち、剋っては試されつつある成長の期間に、遂には、与えられる艱難を征服するだけに止まらず、求めて艱難へ突入し、艱難をうしろに振り向くときの愉快な人生を、人生の最大なよろこびとなすことを覚えた。
この自信が肥大して、おれに不可能はない!という思いに至ります。
そういう感じ方もあるものなんだなぁ、と異世界の風景をみるような気持ちで読んで印象的でした。
本当はここで、よし自分も艱難にチャレンジするぞ!と決意できれば自己啓発的にまとまってキレイなんでしょうけど、そんな気持ちにはなれませんでした。ぼくの性分で。
秀吉は着々、実行あるのみ
つぎは、秀吉のシーンです。
本能寺の変を知った秀吉の前には、難問が山積みです。
目の前の敵をどうするか、敵とにらみ合っている今、どうやって撤退するか、毛利の大軍をどうさばくか、撤退できたとして明智光秀とどう戦うか…。
秀吉は、こう考えます。
深く考えるにも及ばぬ。天機は寸秒の間にもうごく。何よりはすぐ行動だ。着々、実行あるのみ。一難一難、身をもって当たりつつ、その都度、ずばずば考えを決してゆけばよい
秀吉のほうに共感できる
おなじ艱難に立ち向かう姿勢をあらわした言葉にしても、信長より秀吉のほうが胸にしっくりときます。
なぜなのか考えてみると…。
信長のほうの考え方に共感しようと思うと、艱難を征服しなきゃいけないんです。ぼくにそんな自信はありません。でもこっちの秀吉のほうは、艱難を征服しなくても、ただ着手すればいい。だから、心に重荷を感じないんです。
ぼくのような凡人にとってどちらが救われる言葉かというと、秀吉のほうです。
本を読んで少しでも心の荷が軽くなる言葉に出会えるのは、しあわせなことですね。