どんなことでも、どうにでも解釈できる

日記

いま、司馬遼太郎さんの小説『尻啖え孫市』を読んでいます。

むかし、歴史小説の面白さに目覚めた頃、司馬遼太郎さんの小説が大好きで読み漁っていました。

でも作品数が多いので、当時はぜんぶ読み切れず、未読のものもたくさん残っています。

『尻啖え孫市』もその一つです。

まだ読んでいない司馬遼太郎さんの作品があるのは、幸せなことです。これから読める楽しみが、まだぼくにはあります。

読書メモ

読書をしながら感じたことをブログにメモしています。

前回は『尻啖え孫市』を読んで、自分なりの価値観をつらぬく人はカッコいいと感じたことをメモしました。

今回も、読んでいて感じたことをメモしておきます。

どんなことでも、どうにでも解釈できる

主人公の孫市が、僧侶についてこんな感想を抱くシーンがあります。

引用します↓

 

孫市は、僧侶がきらいである。田畑も作らず、刀槍ももたず、暮らしの生き死にの瀬戸際から離れた場所で、ひとに説教を垂れているという種族がふしぎでたまらない。

人生をいたぶっているばけものだとおもっている。

 

と。

孫市はこんなふうに感じているんです。

人生をいたぶるばけもの

この小説の中で、ふつうの人々は僧侶をありがたがっています。人生を救ってくれる存在だと思っています。でも孫市はちがう。僧侶のことを「人生をいたぶっているばけもの」だと感じている。なるほど、そういう見方もあるのか、って思います。

見る人によって解釈が変わる

べつに孫市の見方に賛成とか良いとか悪いとか、それを言いたいんじゃありません。単純に、孫市のような考え方もあるんだ、と思うんです。

見る人の解釈のしかたによって、僧侶は人生を救ってくれるありがたい存在にもなれば、人生をいたぶるばけものにもなる。僧侶自身は、何も変わっていないんです。見る人が変わっただけ。

世界を組み替える

どんなことにでも、正反対の解釈が成り立つ。言いかえれば、自分の好きなように、世界を組み替えることができる。そんなことを感じました。

これには、いろんなことを自分の追い風にできる良さもあれば、見たい世界だけを見てしまう怖さもありますね。

以上、読書で感じたことのメモでした。

新装版 尻啖え孫市(上) (講談社文庫)
新装版 尻啖え孫市(下) (講談社文庫)

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